新年の最初の五営業日くらい明るく楽しく優しく過ごそう、約束ね。と思っていたものの、
緊急事態宣言が出て、
リモートワークに僻んでしまいそんな自分に自己嫌悪で、
コロナ罹患しても誰が心配してくれるんやろうなあ、そんな身寄り欲しかったなあ、
と泣きながら帰りました。
慣れないことはするもんじゃないなあと思う反面、でもなりたい姿を目指さないと一生慣れないままだよと思う。だから、するもんじゃない、では、ない。
誰が自分を心配してくれてるか、じゃなくて、誰かが私を心配したり気にかけてくれると思って、自分を粗末に扱わないこと。
自分は誰かの視界に入っているとか気にかけてもらっているとかを認めること。これは今までと違う挙動でとてもとても苦しい。自分が不幸の匂いに引き寄せられていて、慣れ親しんだものは孤独と地獄のあの家庭で、それを再現しようとしている。
そして、幸せの匂いのするものがとてもとても、怖い。
家族、身寄り、自分を見てくれる人、仲間、そのあたりか。
だから会社とか仕事にそれを求めて依存する。
心の中にいる身寄りがない子、今辛いだろうな、寂しいだろうな、ステイホームなんて絵空事だよな、とか話しかけては慰めている。
10年前のmixi日記読み返したら、働き者の頑張り屋さんがそこにいて、でもその子はずっとお金に固執してて、認められるためだけに動いていて、自分を置き去りにしていた。
その当時の自分に向けては、よく頑張っているねと褒めてあげて、できれば一か月かそこらくらいバイトせずに済むようにしてあげたかった、な。
お金、認められること、褒めて貰えること、承認されること、どこにいってしまったんだ。
でも、何かは必ずあって見ようとしていないだけなのよね。
見ようね。
それにしても昨今の話題は自分をえぐるものが多くつらいなあ。
家族のケアのための自分、弟は家事が出来なくても、食べた後のテーブルを拭かなくても何も言われなかったのに、とか。
忘れないよ、父親の面倒を見させるための私がいたこと。父親に肉じゃがを作るためにお前はお料理教室に行けとかそういう言動。弟は言われてなかったよね。これきょうだい格差と、女であることで押し付けられてると言えるね。
男はいいなあ、洗濯物の干し方が悪くても怒鳴られない。
弟の家事スキルを殴って躾けろと言ったのに、聞いてもらえなかったな。
おかあさん食堂の話題も、配偶者の呼称も、全部地続きで自分の近くにあるってこと、忘れないよ。
もう誰のケアもしたくないとか悪い気持ちがたくさんだ…
ゆっくりすごしたい。生きていたい。生きない理由を作りたくない。
誰か助けて。