やるだけやったら出たとこ勝負

言い訳の出ないところまでやってやりたい、と思う意識そこそこ系会社員の記録。

本を買う/これから(追記あり)

本を買った。久しぶりに書店によって、目に飛び込んできた雑誌を一つ、美容やボディメイクの本をいくつか。楽しい。

自分を慈しむための取り組みとしての美容やメイクと、社会儀礼としてのメイクやふるまいと。様々な論が飛び交う、答えはない。

いろんなものが見えてしまって、限界だなとは思う。

この先ずっと、この閉じた息苦しい世界が広がるのだろうか。

来年の春コスメのこととか考えたい、今年はもういいや、来年まで生きてるんだろうか?

メイクの自由とか喜びや美容は自分のためのものということを思い出す私と、それはそうとして生きることが不確かな私が存在する。

なんのために生きてるんすかね。

死ぬのは大変らしいときいたこと、失敗したときのリスクなどがある。希死念慮はリスクを越えたところにいる。

せめて今積んである本を片付けて、未開封のコスメを使って、あと今動いてるプロジェクトを成功させて、昇給して…ってしてから考えるでもいい?

実感がないんだよね、私が死んだら悲しいと思う人がいる、とか。死んだら家族は喜びそうと思う(弟の結婚前に死ぬのはよくないのか?)

この状況になる前は、半年以上先の観劇のチケットで生きていた。今はそれがない。

メンヘラを黙らせるための「死んだら悲しい」なのか、ほんとうに(本当とは何か)悲しいから悲しいというのかどっちなんだろう、そこは気になる。

私がいないほうが世界が今よりちょっと綺麗とか、口うるさくて普通でないのが減るからいいとか、思うよ。

以下追記

死んだら悲しまれるのは特別な人だけ→その特別に、私は当てはまらないと考える→誰も悲しまない、があるな。認知の歪みだと思いたい。

前までは、私は愛されてるから大丈夫とか、根拠なく思えていた。今は、見捨てられ不安が強い。だから、みんなに好かれて誰からも嫌われない人になりたい。これ以上人が離れていくのは嫌だ。

みんなになれたら、見える世界は変わるのかな。私のいいところ全部差し出すから普通になりたいし、これまでの楽しかったことと引き換えに嫌なことも消して、何事もなかったかのようにニコニコ生きていきたいってのはわがままなのか。

痩せっぽっちになりたいし何も考えられなくなりたい。